×甫木元空 Bialystocks

×甫木元空 Bialystocks
加藤拓也  甫木元空
■映画、演劇、音楽──それぞれの創作における言葉の強度について


加藤:「I Don't Have a Pen」のMVから入ったんですけど、映像も作ってて驚きです。映画には映画の言葉の強度があるし、音楽には音楽の、そして演劇には演劇の言葉の強度があります。甫木元さんは扱っている言葉たちは強度が高いのにオーガニックで軽やかですよね。

甫木元:一口に「音楽」といっても、扱う言葉は楽曲によってかなり違ってくるんですよね。「I Don't Have a Pen」という曲を作っていた頃は、ちょうど小説を書いている時期でもありました。なので小説執筆の延長線上で歌詞を書いていたような気がします。Bialystocksは相方の菊池剛とふたりでやっているものですが、ひとりで弾き語りをするような楽曲の場合は、自然とメロディにハマる言葉を選んでいる。でも菊池と作るときはだいたいデモが英語で送られてくるので、その音に対してパズルのように言葉を組み合わせていきます。アプローチは違いますが、それぞれに言葉を扱う面白さがありますね。音楽の場合はメロディが主人公なので、言葉で何かを伝えようというよりも、並びの面白さや音の心地よさを重視しています。感覚としては映画の編集に近いかもしれない。どのカットを組み合わせたら、固有の面白さが生まれるのか。これと同じような感覚で、言葉を組み合わせています。

加藤:なるほど。

甫木元:歌詞って不思議なもので、日本語としてはおかしくても、メロディに乗せちゃえば成立したりするんですよね。だから音楽は恐ろしいものでもある。いくら歌詞の中でめちゃくちゃなことを言っていたとしても、メロディに乗せて繰り返し聴覚に訴えれば、ときにオーディエンスを納得させてしまうことだってありますから。言葉というものの位置付けは、各表現媒体ごとに変わってきますよね。

加藤:映画は映像だけでも情報を伝えられるけど、演劇の場合は劇中で展開する物事を進めていくための手続きとして、一つ目のチョイスに言葉が選ばれることが多いです。自分の演劇作品では、無言で進行する場面も作りますが、言葉で手続きを踏むことがやっぱり多い。言葉の強度で進行のリズムを決定することもできます。だからこの“強弱”を意識しながら言葉を選んでいくわけですが、好みであるオーガニックな言葉を選んでいます。勝手にオーガニックな言葉と呼んでいますが。

甫木元:何かフックになるものがあったらいいなとは思っています。とはいえ、できるだけ日常的に使っている言葉から選んでいるんですよ。いまここでこうしてやり取りをしているような言葉たちから。辞書を引かないと分からないような言葉を取り入れたら、音としての感触は心地いいのかもしれない。でも音楽は会話より言葉が伝わる速度が遅い。僕としては、日常的な言葉を並べることによって何を描くことができるのか。これを意識しているんです。

──創作をするうえでの、お二人の言葉との関わり方がそれぞれ違うんですね。加藤さんの作品では、劇中の物事を進めていくために必要な言葉が求められているのに対し、甫木元さんの音楽における言葉は、日常の中の偶然の出会いによって選ばれている。そんな印象を持ちました。

甫木元:何に対してどのようにアプローチしていくのかで、採用される言葉は変わってきますよね。物語は言葉によって組み立てられているし、キャラクターをかたち作っていくのも言葉(=セリフ)だったりする。いっぽう音楽においては、加藤くんの言うところの手続きをほとんど必要としませんから。


■文化的背景の異なる環境下での創作/表現

甫木元:加藤くんの作品の登場人物って、多くのキャラクターが本音と建前を持っていますよね。表向きは相手にとって気持ちのいいことを言っているけど、本音は違うだろうと観客に思わせるところにサスペンスが生まれる。このバランスもそうだし、丁寧な積み上げ方がすごいなと。演じる役者さんとの信頼関係があってこそ成立するものだとは思うのですが、執筆の時点ではどこまで考えているんですか?

加藤:登場人物の言っていることと思っていることが違う状態を作るというのは、たしかに意識的な部分もあります。どのレベルまで観てる人に分かってもらうかは、ほとんど手放しにしてきましたが、ここ最近は異なる言語を扱う機会が増えてきて、書き方や考え方に変化が出てきました。日本人というアイデンティティを持ったうえで、日本語以外を母国語とする方々に、建前と本音のフィクション具合はどうやったら伝わるのか。これを考える方向へとシフトしてきました。

甫木元:日本人特有の空気を読み合うあの感じって、海外の観客は共感できるんですかね?

加藤:キャラクター同士が読み合いになって、さらに読み合いの読み合いになって、そしてそれを観客も読み合わないといけなくなる状態、読み合いが重なりまくる状態になってしまうと難しいかもしれませんね。

甫木元:文法も違いますしね。そもそもの言葉の作りが違う。

加藤:ある本で読んだのですが、文化的な背景の違いによって、論理的思考そのものも変わってくるんだそうです。ある物事に対する主観を大切にする思考法があれば、時系列を重視する思考法だってあるし、反証を重ねて結論を導き出す思考法もある。それぞれの文化圏ごとにある種の正解があるわけだけど、これが異なる文化圏では論理的だと受け取ってもらえない。

──興味深いですね。

加藤:だから異なる思考法や文法で構成された作品を海外に持っていっても、文化的な背景が違えば、「論理的ではない」という判断になってしまうこともゼロではないと思います。これは日本に限った話ではなく、国が違えばどこにでも起こっていることなのだと実感しています。

甫木元:海外の方々と一緒に作っていると、意見が食い違ったりしますよね。フランスの編集マンと組んだときに、いったい何が論理的なのか、それぞれの考えに大きな違いがあるのを肌で感じました。余韻、何も起きていない時間も時には大切にしたいと思う僕は、カット尻に余裕を持たせたい。でもこれはかなり空気を読むような日本人的な思考法なのかもしれません。あちらが提示してきたものは、具体的なものが適切な長さで繋がれてカット尻が短かった。カットとカットを身体的なアクションや言葉で繋ぐからです。

加藤:理解できます。

甫木元:ひとつのシーンを立ち上げるため、どういうふうにカットを繋げば論理的な筋道が通るのか。このあたりの捉え方もまったく違いますね。

加藤:脚本作りや編集の過程だと如実に感じます。


■観客/聴衆に向けた言葉──受け取られ方に対するスタンス

──言葉の強度を下げれば、観客や聴衆の多様な受け取り方が生まれてくるわけですよね。場合によって、誤解や誤配も生まれる。意図しているものとは異なるかたちで受け取られることについて、おふたりはどう考えているのでしょう?

加藤:余白のある言葉を使うとその可能性は上がりますが、言葉の受け取られ方をコントロールしようとそこまで思っていません。というか完全にできるとも思えない。こんな風に受け取れるな、でもこういう風にも受け取れるな、という想像を幾つか膨らますことくらいかもしれません。そこで何かを選ぶと何かが消えて、別の何かの可能性も出てくることもあって、100パーセントは不可能かな。文字とか言ってることも疑っちゃうし。台本の文字で見るより、俳優が喋っていく状況で、どんな風になっているのか、ということが提示するものかもしれない。映画でいうところの人物のアップではないですね。

──劇中で起きることを、あくまでも事象のように捉えるということですね。甫木元さんはどうですか?

甫木元:日常的に使っている言葉から選んでいるように、あまり特別な意味が発生しないようにと意識していますね。だから豊かな広がり方をしてはほしいもののいっぽうで、「頑張れ」みたいなストレート過ぎる言葉はあまり使わないようにしています。ど真ん中の言葉を音楽に乗せて伝わる強さも好きなのですが。それ自体少し洗脳に近い行為に感じているのかもしれません。

──それは心の中では「頑張れ」と思っているけれど、実際に発する言葉としては別のニュアンスのものを採用している、ということでしょうか?

甫木元:誰かの背中を押すような表現がほかにできないか、ずっと探しています。組み合わせしだいで面白く扱える言葉だとは思うのですが、今の世の中では聴く相手を刺し過ぎてしまう瞬間が絶対に出てくるはず。だから僕も言葉の受け取られ方をコントロールしようとは思わないけど、どういうふうに受容されるのかは考えます。もしいつか僕が「頑張れ」って言葉を使うとしたならば、ちょっとズレた伝わり方をしたら面白いだろうなと思っています。これは加藤くんが描く、心の中で思っていることと口にしていることが違うキャラクターたちの、あの感じに近いのかもしれない。

加藤:なるほど。

──加藤さんは観客にどう届くかまではコントロールしないとのことですが、それなら海外で上演する際にも論理的思考などのことは気にせずに、「どう受け取られたっていい」というスタンスでもやれるのではないかと思いました。言語の壁もありますし、これは的外れですかね。

加藤:どう受け取られたっていいということとは違うかなと思います。根拠のある解釈は無限ではないと思いますし、どう受け取られてもいいかと、伝わってるかどうかが別の話というか。言語の違いというのは伝わってるかどうかの話かなと。映画も演劇も言葉の受け取られ方より、状態と状況で語ることのほうが大事だと思っているので、この状況に対してできる解釈には自由さがあるというか。基本的にはこの状態と状況がちゃんと伝わっていないというのは困るので、そこは伝えれるようにしたい。

甫木元:そういうことなんですね。キャラクターの状態や状況よりも、とにかくセリフの応酬のリズム重視の作品ってあるじゃないですか。でも加藤くんの作品は、強度を下げた言葉たちのリズミカルなキャッチボールがありながら、登場人物の自我がちゃんと見えてくる。それがすごいと思うんですよね。リズムの刺激だけじゃない。こうして言葉を交わすために顔を合わせるような場でもないかぎり、基本的に人間ってたいしたことは話しませんよね。でも日常生活の中で交わされる言葉が軽いからこそ、そこで人間が裸になっていくことってあると思うんです。加藤くんの作品にはこれがある。僕も勉強したいです。


■創作者である自分の想像を超える何かとの出会い

──甫木元さんは過去のインタビューで、他者との共同作業の中から生まれる偶然性のようなものを大切にされていると語っていましたね。

甫木元:そうですね。このスタンスはいまもほとんど変わっていません。たとえば映画の場合、脚本はあくまでも設計図だと捉えているので、ここからはみ出したほうが面白いと考えています。僕自身の想像していなかったところに連れて行ってほしいなって。自分の遠くにあるものをどんどん取り入れていきたいんですよね。

加藤:僕も自分の知らないことは知りたいし、日常生活の中で変なことが起きると一応メモする。

甫木元:日常の変なこと?

加藤:どこか現実離れしているけど、変な台本にあるようなことが実際に起きたりする。

──そうした想像の範疇を超えるような体験が、最終的には戯曲に落とし込まれたりするわけですね。

加藤:起きたイベントそのものを持ち込むわけではなく、イベントに遭遇したときの気分などですね。

──それはテーマ設定にも影響してきますか?

加藤:ケースバイケースです。どんなテーマの作品が立ち上がるのか、スタート時点で分かってるときや、分かっていないときもありますから。分かってるつもりなだけの時もありますし。ただそれぞれの作品を作るに至る、何かきっかけのようなものがあるのは間違いないと思います。このきっかけとの付き合いが最終的に演劇や映画になるし、何がどんなきっかけになるかはわかんないですよね。

甫木元:僕は父を亡くしたのを機に自分のルーツへの関心が芽生え、生まれ育った地元の埼玉で一本目の映画を作りました。肉親を失うというのは衝撃的な体験です。時間をかけて俯瞰的な視点を得たうえで描くこともできたと思いますが、あの当時の自分だったからこそ描けたことや残せたものがあるはず。記録するという意味合いが強かった。時が経つことで感じ方も変わりますしね。でも今後は、自分の置かれている状況や心情から生まれる切実さばかりを作品に残すのではなく、もうちょっとバカバカしい方向に振ってみたいです。

加藤:いろんな変遷を経て、創作に対するスタンスは変わってきますよね。もちろん変わらないところもあるにはあるけど、作品を重ねるごとに思います。


■刺激的なコンテンツやAIとの向き合い方

加藤:ショート動画ってあるじゃないですか。皆あんまり口にしないけど、あれはどう見てるんですか?見てるっていうと恥ずかしいやつなんですか?インスタのリールの短いやつはいいけど、TikTokはちょっとな……みたいな感じありません?

──目にすると戸惑ってしまうということですか?

加藤:いまの中高生にとって、物語を扱ったコンテンツとの出会いの入口として、おそらくもっとも選ばれているんじゃないかと思います。

──文化的な背景の異なる人々が作るものともまた違う、まったく別の文脈のコンテンツだと。

甫木元:さっきのフランスの編集マンの話に戻りますが、文化的な背景が異なっても相手の言わんとすることは分かるんですよ。俳優の身体の動きや物語の流れがある中で、どういうふうに繋げばそれぞれが活きるのか、彼には彼なりの理路整然とした考えがある。これを踏まえたうえで、僕はこちらの意図を伝えます。でも加藤くんが言うショート動画は、より強い刺激ばかりを追い求めたコンテンツで、いまのところ共通点が見つからないってことですよね。すごく流行ってますよね。でも観ちゃうってことは、けっこう気になってはいるんですね。

加藤:正直まったく観てないんです。ごめんなさい。

甫木元:いま、コンテンツ消費のスピードは目まぐるしく、手っ取り早い刺激を求めて誰もが過剰摂取の状態にある。そこにヒットしたんじゃないのかなと。それからAIが作る動画なんかもそう。たまに目にしますが、あれはすごいですよ。おばあさんが火山に飛び込む動画とか。

加藤:おばあちゃんYouTuberみたいなやつですね。

甫木元:この現実世界がヤバいからこそ、より刺激の強いコンテンツを求めてしまう。その気持ちは分かります。でもああいうAIが生み出したような刺激ばかり浴びていたら、果たしてどうなってしまうのか。そういう不安はありますね。

加藤:AIとの向き合い方や付き合い方も本腰をいれたいですけどね。

甫木元:今後、加藤くんが書くようなものをAIに学習させて、誰でも加藤くんの側だけ書けるようなものになるかもしれない。
スピルバーグ映画のように編集してほしいと伝えたら要望どおりに繋いでくれるだろうし、AIが開く可能性は無限にあると言える。

加藤:僕は『きれいのくに』(2021年/NHK総合)と『滅相も無い』(2024年/MBS・TBS系)という2本のドラマでAIを使いました。出演者の顔の複製や、映像の補正などを目的として。率直に言って、本当の意味ですべてをお任せする使い方はまだ想像つきませんでしたが、人間ができることの拡張という意味ではとても便利だと思いました。演劇のできることも拡張できると思います。作品だけではなく、演劇を作るカンパニーの運営に取り入れることもできる。

──人間だけでは作れないものも、AIの力を借りれば生み出すことができると。気になるのが、おばあちゃんYouTuberの動画のような刺激的なコンテンツって、おふたりが志向する言葉のオーガニックさなどとも対極的ですよね。どう捉えていますか?


甫木元:言葉と組み合わせられることで洗脳すら可能なところが怖いです。
ただ現状の刺激的なコンテンツに関して言えば、消費されてしまうかもしれませんね。

加藤:消費しやすい刺激に慣れたらどうなっちゃうんでしょうね。もう慣れてるのか。



*劇団公演『景色のよい観光地』
2026年1月17日~2月1日
https://takumitheater.jp/news/id_763/



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ほきもと・そら/1992年埼玉県出身。映画監督、音楽家、小説家。多摩美術大学映像演劇学科在学中に青山真治の指導を受け、卒業後青山真治、仙頭武則共同プロデュースにより、自身が監督、脚本、音楽をつとめた『はるねこ』で映画デビュー。
2019年にBialystocksを結成、22年にメジャーデビュー作『Quicksand』を発表。本作が収録する「はだかのゆめ」を主題歌とする第2作『はだかのゆめ』が同年に公開。23年には同名の小説で小説家デビュー。青山真治が温めていた脚本を引き継いで執筆、監督した最新作『BAUS 映画から船出した映画館』が2025年3月に公開。

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文:折田侑駿
ファシリテーター:千代田修平
写真:木村和平